近添 淳一

株式会社アラヤ 脳事業研究開発室 チームリーダー
生理学研究所 生体機能情報解析室 准教授

メッセージ

近添班では、共同研究(企業・大学など)を積極的に行いたいと考えています。

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研究計画の概要

経済的・道徳的判断が進化的に新しい機能であることから、これらの判断に関与する神経基盤は従来異なる機能を果たしていた脳領域の転用である、と考えられる。情動的価値判断の神経基盤が経済的・道徳的判断に転用されているという仮説の下、一連の機能的MRI実験を施行する。

特に、利得と損失への感受性の不均衡(個人は損失回避的に振舞う)を報告する行動経済学の実験結果に着想を得て、摂食・経済・道徳的判断課題において、快・不快の情動を同時に引き起こす刺激(両価的刺激)の提示を行う。

これらの課題遂行中の脳活動を計測することにより、刺激の快さ・不快さ・統合的価値情報にそれぞれ関連する脳領域を同定し、経済的・道徳的判断における情動の役割を明らかにする。従来の研究では経済学・倫理学上の概念に対応する脳内表現の発見に重きがおかれていたが、本研究では、生物学的概念すなわちホメオスタシスによって、経済学・倫理学上の現象の説明を試みる。

本研究の学術的背景、研究課題の核心をなす学術的「問い」

アダム・スミスが「国富論」において提示したように、古典的経済学においては、自己利益(効用)最大化を目指す経済合理的な個人(homo economicus)が仮定されてきた。経済学と心理学の融合領域である行動経済学においては、心理実験や経済学実験の結果から、個人の経済行動は経済合理的な振る舞いから大きく逸脱していることが示されているが(Ariely2008)、これがどのようなメカニズムに起因するものかは未だ明らかにされていない。貨幣を介した経済活動は人間固有のものであり、進化的にはごく最近現れたものであることから、経済行動に関与する神経基盤は、進化的により古いシステムを異なる目的に転用する働き、いわゆる外適応の一種であると考えることができる。本研究計画においては、「個人の経済的判断が時に不合理なものとなることの起源は、神経基盤の外適応に求められる」との仮説をおき、これを検証する。特に、ポジティブな刺激とネガティブな刺激が異なる神経基盤で処理されるのみでなく、これらを統合する神経基盤が別個に存在すると仮定し、機能的MRI実験によって、快・不快・統合的価値の3種類の情動的価値の神経基盤の同定を行う。

行動経済学の中心的理論であるプロスペクト理論においては、利得と損失の重要性は非対称的であって、個人は損失回避的に振る舞うとされる。例えば、100ドルを2倍にするギャンブルへの参加を選択する問題で、多くの被験者は、100ドルの貯蓄がある状況ではギャンブルを避けるようになるのに対し、100ドルの債務がある状況ではギャンブルへの参加を好むようになることが実験的に示されている(Kahneman and Tversky 1979)。このような実験結果は、利得と損失の情報処理が異なる脳内システムによって行われることを示唆しており、これらの統合も経済的合理性に従う方法で行われていないことを示唆する。

経済的意思決定がホメオスタシスと結びついた情動系によって処理されているという仮説の下、進化的観点、心理学的観点から、行動経済学的に示された個人の経済行動の不合理を統一的に説明することを試みる。ホメオスタシスと直接的に結びついた系である摂食において、快い刺激は高カロリーの食物、または体内恒常性の維持に役立つ刺激である一方で、不快な刺激は苦味のように、潜在的な毒性を示す(Nissim et al., 2017)。強い甘味に混じった微かな苦味は、弱い甘味と等価となるわけではなく、高カロリー物質と潜在的毒性の混合物として捉えられ、そのような食物を嚥下するかどうかの判断は、栄養状態と毒性物質の代謝能を考慮した複雑な判断になりうるが、実際は快・不快の判断に置き換えられている。このようなシステムを転用することで経済的意思決定がなされるとすれば、利得と損失の算術的な差分の計算が成り立たないことは理解可能であるし、恒常性におけるひっ迫した状況(例:飢餓状態)に置かれている場合でなければ、リスク回避的行動は合理的である。このように、快さと不快さが混合した刺激が脳内でどのように処理されるかを解明することは、人間の経済行動の不合理性を理解するうえで重要であるにもかかわらず、これを直接的に扱った研究はほとんどない。本研究では、刺激の快さ・不快さ・統合的価値の脳内情報処理機構に焦点を当て、摂食・経済・道徳という異なる次元における価値情報の統合処理過程を明らかにする。

本研究の目的及び学術的独自性と創造性

本研究を通じて、機能的MRIにより摂食・経済・道徳における意思決定における共通の神経基盤を同定するとともに、経済的・道徳的意思決定における情動の役割を明らかにする。本研究には以下のような特徴がある。

1)神経科学から経済学・倫理学へのフィードバック

従来の神経経済学研究は、経済学上の概念(例:貨幣)に対応する脳内表現を発見することに重きが置かれていた。これは言わば、経済学的概念を神経科学に導入する試みであると言える。本研究では、これとは逆のアプローチを取る。すなわち、神経科学的・生物学的概念、すなわちホメオスタシスによって、経済学・倫理学上の現象を説明する。このアプローチによって、人間にとって“自然な”経済制度の設計や倫理規範の構築が可能となる。

2)情動的価値の多元的表現に関する知見の蓄積

快・不快を一次元の異なる極としてではなく、独立の二次元変数としてモデル化することにより、前頭眼窩野内で、これらの情報が混在していることを実験的に示した(Chikazoe et al., 2014, Nature Neuroscience)。このように、 情動的価値の二次元表現に関する実績があり、この分野での研究を先導する立場にある。

3)様々な感覚モダリティ、抽象的次元(経済・道徳)において観察される普遍的な価値

価値に基づく行動選択において、柔軟な意思決定を可能にするのは、感覚モダリティを超えた価値情報が脳内で表現されているからであると考えられる。こうした観点から、 様々な感覚モダリティ(視覚、味覚、聴覚、触覚)を用いた情動的価値刺激の提示システムを構築し、感覚モダリティに依存しない普遍的価値の脳内表現の探索を行っている。本研究では、味覚から始めて、経済的価値、道徳的価値と、より抽象的な次元に拡張しながら、情動的価値の脳内表現の普遍性を探る。

本研究の研究領域における位置付けや役割を踏まえて、何をどのように、どこまで明らかにして研究領域の推進に貢献しようとするのか

本研究は、研究領域「情動情報学」において、中心的役割を果たす。情動的価値すなわち快・不快の情動が利得・損失の経済的判断に転用されているという仮説に基づき、ホメオスタシスという観点から情動的価値を捉えなおすことで、不合理的な経済行動の機序を明らかにする。さらに道徳的判断といった、複雑な進化の結果生じた機能においても、情動的価値が主要な役割を果たすことを示す。具体的には、正の価値(快さ)と負の価値(不快さ)が脳内で異なる経路によって処理されること、およびこれらの統合に関与する神経基盤を明らかにするため、研究分担者である慶應・地村と連携し、3種類の機能的MRI実験を実施する。

〔実験1〕味覚における両価的価値の統合処理過程の解明
甘味刺激と苦味刺激を様々な割合で混合することにより、両価的価値をもつ味覚刺激を作成することができる。甘味は高カロリーという観点からホメオスタシスの観点からポジティブである一方、苦味は植物性アルカロイドのような毒性の指標となる(実験には毒性のない刺激(カテキン)を用いることとし、安全性に関して被験者には予め伝えておく)。本実験においては、統合的価値は単純な快さと不快さの差分では計れないことを実験的に示し、この3要素(快さ・不快さ・統合的価値)と関連する脳領域を機能的MRIにより同定する。被験
者は甘味と苦味が様々な割合で混ざった溶液(甘味:苦味=100:0, 99:1, 95:5, 90:10, 70:30,50:50とし、濃度も100%, 30%, 10%と変化させる)を口内に提示され、これを嚥下するかどうかを判断する。さらに、各試行の刺激の快さと不快さをそれぞれ回答する。甘味の強さに
関わらず、苦味が存在しない試行では被験者は嚥下を選択するのに対し、これらが混合している試行では苦みの強さに応じて嚥下を避ける選択をすることを予想する。さらに、被験者の嚥下選択頻度は、刺激の快さと不快さの差分と相関しないことを示し、快さ・不快さ・統合的価値(嚥下選択頻度から推定)とそれぞれ関連する脳領域を機能的MRIにより同定する。

〔実験2〕ギャンブリング課題における報酬の両価性の処理過程の解明
本実験においては、「経済的な利得と損失が同じ尺度の下で捉えられないのは、それぞれの情報処理が異なる脳内回路によって処理されているからである」という仮説を検証する。合理的経済人は、利得と損失の差分のみを判断に用いるが、上述のように、利得と損失が単一の軸で捉えられるものではなく、質的に異なる二つの軸で捉えられるものであれば、利得と
損失が同時に生じる試行を提示した場合に、利得と損失の差分のみでなく、利得の大きさのみ、損失の大きさのみを捉える脳領域が存在することが予想される。

〔実験3〕道徳的判断における両価的価値判断システムの役割の解明
本実験においては、複雑な道徳的判断も情動的価値判断システムに依拠するという仮説をおき、これを検証する。思考実験としての道徳的ジレンマは、倫理的問題における両価的価値判断として再定義できる。代表例であるトロッコ問題では、「1人を犠牲にして5人の命を救うか、あるいは、5人を犠牲にして1人の命を救うか」を問うが、本質的には同じ状況の判断でも表面的な表現の違いで被験者の判断が変化することが示されている(Hauser et al.,2007)。道徳的判断の神経基盤の進化的な古さに関しては議論の余地があるが、非ヒト霊長類でも公平性に対する感受性を示すことから、少なくとも道徳の前駆体となる観念を持つことが示唆されている(Brosnan, 2013)。道徳が進化的に古い脳構造に起源を持つということは、経済的判断における情動的価値評価システムの外適応と同様に、道徳的判断においても、情動的価値評価システムが転用されていることの間接的証拠と考えられる。

道徳的判断のような複雑な問題における判断は、快・不快の判断に影響されるか、極端な場合には、快・不快の判断に置き換えられるという結果を予想しており、これを機能的MRIを用いて神経基盤のレベルで実証する。さらに、道徳的判断における情動の役割を踏まえたうえで、倫理学研究者である京大・児玉の協力の下、功利主義を集団におけるホメオスタシスとして捉え直し、情動的判断と理性的判断の不一致を解消する規範理論の構築を目指す。(Chikazoe et al., 2014, Nature Neuroscience)。

本研究では、この二次元モデルを発展させ、快、不快、統合情報の三次元を用いて情動的価値のモデルを構築する。人間やニホンザルなどの脳内で経済学で用いられる概念を表現する領域を探す試みは神経経済学において盛んに行われているが(Padoa-Schioppa and Assad 2006; Rangel 2008)、生体脳の働きに適合するよう経済学・倫理学上の概念を修正するような研究は行われていない。本研究は、領域内共同研究(経済学:渡辺・萱場)・計画内共同研究(倫理学:児玉)を通じて、情動研究から得られた知見を人文系学問に反映させ、情動と理性の融和の体系として経済学・倫理学を再構築する端緒となることを企図している。

参考文献

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児玉 聡 「功利主義入門—はじめての倫理学」ちくま新書 (2012)